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THE BATMAN ザ・バットマン(2022)③


【原題】The Batman

【監督】マッド・リーヴス

【出演】 ロバート・パティンソン ゾーイ・クラヴィッツ ポール・ダノほか

【あらすじ】

両親を殺された過去を持つ青年ブルースは復讐を誓い、夜になると黒いマスクで素顔を隠し、犯罪者を見つけては力でねじ伏せる「バットマン」となった。ブルースがバットマンとして悪と対峙するようになって2年目になったある日、権力者を標的とした連続殺人事件が発生。史上最狂の知能犯リドラーが犯人として名乗りを上げる。リドラーは犯行の際、必ず「なぞなぞ」を残し、警察やブルースを挑発する。やがて権力者たちの陰謀やブルースにまつわる過去、ブルースの亡き父が犯した罪が暴かれていく。(映画.COMより)


 
【感想(ネタバレ)】




ゴッサムシティの嘘がブルースの父トーマス・ウェイン並びにウェイン家の嘘に繋がり、そしてそれはブルースつまりはバットマンの嘘に繋がる……これまでヴィランの過去は描かれどバットマン自身の「衝撃の過去」が明らかになるというのは、なかなか今までにない展開ですよねー。リドラーはウェイン財団の孤児院で育った過去を持ち、その孤児院の出資がファルコーネ含むマフィアの資金源として流されていた過去、そして麻薬王マローニ逮捕のウラでファルコーネが警察裁判官などを密かに買収していた事実、ウェイン財団のウソが引き金となりゴッサムシティの「壮大な茶番」にまで発展したこの嘘を世間に暴露しようとする精神はジャーナリズム精神に近いものも感じ取れます。そしてリドラーは完全に「正義」の名の下で動いていた。彼は完全に「絶対悪」なのか_??



世の中には世間で公にされない“嘘”が沢山あることでしょう。それはどの国でも同じことで日本でも例外ではありません。未だ公にされない「政治とカネ」問題に真っ向から切り込んだ「新聞記者」がNetflixで配信され大きな話題となったことからも、民衆は国が隠した“嘘”を知りたがっている。「復讐者」として活動するバットマンより見方を変えれば、リドラーはある意味「ヒーロー」にも見えるかもしれない。クライマックスでSNS上で民衆による集団テロを計画し、フォロワーたちが皆リドラーのマスクをしてテロに加担する流れが同じコミックで例えるなら「Vフォーヴェンデッタ」のクライマックスに近いものを感じてしまいました。リドラーが起爆剤となって民衆の怒りが爆発したように見えてしまったんですよね。民衆を暴徒化させる危険人物でもあり、しかし逆に民衆が一致団結して“大噓つき”に反旗を翻す。嘘を暴くことは「正義」なのか?そしてリドラーがやらなかったら「誰がやるんだ」?バットマンでさえその事実に気づけなかったではないか。いやもし気づいていたら、その嘘を暴こうとしただろうか?バットマンはあくまでリドラーの出されたお題を説いただけに過ぎない、我々視聴者サイドに過ぎないのですから。



ラストにバリー・コーガン……が出るのは、実は私より先に見た会社の人に軽くネタバレされたので知ってはいた(いや知りたくはなかったが泣)いやだってリドラーと同じアーカムに収容されてて謎かけも得意で高笑いするって言ったら十中八九「ジョーカー」になるわけでしょ??かたやMCUではヒーローを演じているバリー・コーガン。それまで全然そんなイメージなかったけどここへ来て一気にアメコミ映画に続けざまに出るとは思いませんでしたね。本作の手応えを感じたワーナーが早くもドラマ化とは別に劇場版の続編に乗る気だとか、そうなれば次回作でバリーの演じる“ジョーカー”が登場する可能性は多いにありますし、今作は年内から来年へ公開延期が発表された「フラッシュ」との関連性はないとされておりますが、「モービウス」のジャレット・レトのジョーカー“再演”のウワサも未だ途絶えてないようですし?将来的にパティンソンとベン・アフレックの共演並びに“ジョーカーバース”だって可能性は……今作に限ってそんな安売りはしませんかねw



マッド・リーヴス監督のこれまでの功績を見てみても、例えば「クローバーフィールド」は日本の怪獣映画にインスパイアされたもの、「ぼくのエリ」はハリウッドリメイク、そして「猿の惑星」は言わずもがな普及のSF映画の前日譚、リヴート的作品でリーヴス監督にとって日本未発売の処女作以外に完全なる“オリジナル”作品はなくそこにはいつも“ベース”となる下敷きがあった。そして今作もまた“アメコミ原作”という既存の作品をベースにしています。私は非常に勿体ないなと、日本映画のように映画会社から売れるコンテンツの映画制作を頼まれて映画を撮る人みたいな“職人として映画を撮る”そんな監督にリーヴス監督はこれまで認知されてきたのではないかと。彼の“作家性”がないがしろにされてきたのではないかと(それは少し言いすぎだが)日本でまだあまり認知されていないのも、そうのような理由が一つ噛んでいるのではないか、と思っていたのです。



しかしこの映画を見て私は大きな誤解をしていたことに気づきました。マッド・リーヴスという監督は「既存の作品だからこそ実力を発揮する」人なんじゃないかと思うようになったのです。我々視聴者が既存の作品を知っているからこそ、それとは違う全く新しい切り口でその作品を“再定義”し、そして作家マッド・リーヴスとしての“色”を植えることが出来ているのではないか、と…。これってかなり珍しいタイプの監督だと思うんですよね。作家性の強い人ほど他とは違うものを求めるようになり、オリジナル作品を選ぶ監督が大半の最中、こういった自身のオリジナル作品を持っていない=作家性がないとはならない数少ない監督、それがマッド・リーヴス監督。彼の次の作品、既存からの再構築をまた楽しめるかもしれませんねぇ。

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